近左 Kinsa

歴史

名跡近左の由来

川端家は滋賀県(近江)の出身で
代々、京都二条高倉上るに於いて但馬豊岡藩
備前岡山藩などの御用油商を営んでおりました。
家業の傍ら俳諧・俳画・日本画などをたしなみ、特に好きで蒔絵を始めたのが
いつしか(天保年間頃)家業になったと伝えられております。
そうして、江戸時代「近江屋」の屋号と名字の「佐兵衛」より称したのが
初代「近左」の始まりです。
磨かれた漆芸の技とともに、その名が代々受け継がれ
二百年続く由緒ある名跡となりました。

▶歴代の紹介◀

初代 近左
本名:左衛門 文政元年〜明治22年(1818〜1896)

油商を営むかたわら俳諧・日本画などをたしなんだ佐兵衛は、趣味で始めた漆芸・蒔絵(まきえ)への愛着が昂じてもうひとつの家業となり、19世紀中頃の天保年間には、すでに漆工芸の仕事をしておりました。元治元年(1864)の蛤御門の変で火災に遭い、長男川端玉章の居る江戸へ移り住みました。玉章は、岡倉天心や三井家の後援を得て活躍し、画家として歴史に名を残しています。

*蛤御門の変:政変により京の都を追われていた長州藩が、元治元年(1864)に勢力回復を図って出兵し、会津、薩摩などの藩兵と戦って敗れた事件。最大の激戦が蛤御門付近で行われました。

鎌倉彫香合(かまくらぼりこうごう)

二代 近左
本名:佐七 文政6年〜明治34年(1823〜1902)

初代の長男、玉章が画を好んで家業を継がなかったため、弟の佐七が二代を襲名いたしました。慶応3年(1867)に大阪に移住。蒔絵、螺鈿(らでん)を得意とし、数え年77歳の喜寿の年には、喜翁近左と共箱しております。

箱崎神器画模様朱大棗(はこさきしんきえもようしゅおおなつめ)

三代 近左
本名:義洞 嘉永6年〜明治45年(1853〜1912)

初代の三男にあたる義洞は、二代に後継がいなかったため、兄玉章の後援を受けて明治34年に三代近左を襲名いたしました。父、兄の影響で絵心に優れ、硯箱、卓、棚などに新しい漆工芸の世界をひらき活躍いたしました。三代近左は十数年の短い期間でしたが優れた作品が数多く残されております。

楓蒔絵硯箱見返秋草(かえでまきえすずりばこみかえしあきくさ)

四代 近左
本名:対三郎 明治24年〜昭和50年(1891〜1975)

三代の兄、対吉の三男。初代長男の玉章が二代の弟子、河合漆仙と相談の上、対三郎が12歳の時に三代との養子縁組を決め、三代に師事いたしました。22歳で四代近左を襲名し、数多くの茶道具を製作いたしました。

蓬莱絵溜籠炭斗(ほうらいえためかごすみとり)

五代 近左
本名:三義 大正4年〜平成11年(1915〜1999)

奈良県に生まれ、昭和3年12歳で四代近左に入門いたしました。昭和16年、四代が養女に迎えた姉の末子、吉子の婿養子となりました。その後、日本画を能田耕風に学びながら、家業は四代に師事いたしました。大阪府展および市展で知事賞・市長賞を受け、日本美術展に数回入選。昭和38年五代近左を襲名の後には個展に専念し、各お家元宗匠のお好みになる作品を数多く手がけてまいりました。昭和56年には大阪府知事功労賞を受賞いたしました。

萩桔梗蒔絵大棗(はぎききょうまきえおおなつめ)

六代 近左
本名:一价 昭和22年(1947)〜

五代の長男。大阪市立工芸高校(日本画科)、京都市立芸術大学(塗装科)を卒業し、冬木偉沙夫氏に師事し、木地作りから加飾まで基礎を学びました。その後五代に師事し、平成12年に六代近左を襲名いたしました。平成13年、高島屋京都店・横浜店にて襲名記念作品展、平成14年に高島屋東京店・大阪店にて個展を開催いたしました。三千家各お家元宗匠に襲名記念の作品を好んでいただき、以後各地で個展を開いております。

朱金桜蒔絵大棗(しゅきんさくらまきえおおなつめ)

次代 近左
本名:宏房 昭和53年(1978)〜

六代の長男。幼少期の頃から祖父である五代近左(三義)の傍らで、家業の漆芸に親しんでまいりました。その影響もあり、高校から美術系の学校に進み、卒業後も迷うこと無く漆芸の道に進みました。現在は父である六代近左のもと、歴代近左の教えと技を学んでおります。また、自然をモチーフにした素朴で自由な世界観を作品に込めた創作活動にも取り組んでおります。

○△□三足蒔絵花器(まるさんかくしかくさんそくまきえかき)